視点について考える
(息子と蕎麦屋へ)
息子が小学2〜3年の頃の(だったと思う)、
理科のテストの話。
「地面に立てた棒の影が動くのはナゼ❓」
🙋♂️「地球が動いているから。」
ブッブー❌
テストの答えは、、、
「太陽が動くから」が正解。
🙋♂️「太陽は動かないやん‼️」
と、息子は怒っていた。
確かに科学的には太陽は動かないので、
こんな問題を作る大人もどうかなと思う。
しかしテストとは、、、
出題者の視点に立つことが肝心なのだよ、
息子。
まぁ、、、
棒のそばに太郎君が立っていて、
「太郎君から見た場合」
と注釈があれば問題ないかも。
(いや、太郎君が息子なら分からんけど)
でも、やっぱり問題文の不正確だ。
いや、不正確さに気づいていないのか問題か。
結論、、あまり賢くない。
そして、日本語が微妙。
子供の頭(視点)なら、
こう考える(見える)だろう、
という大人の思い込みが、
ひしひしと伝わってくる。
問題文の不正確さを全く気にも留めてない。
傲慢で、失礼だと思う。
そして更に、
「地球が動くから」という答えを読んで、
マニュアル通りに(多分)△をつけた先生、
どうなの❓
「太陽が動くから」には平気で⭕️。
何かもう大丈夫なのかしら、
と色々心配になった。
ただの好奇心からだけど、
先生の気持ちが知りたくなったりもした。
いやぁ、公立小学校のテストには、
この手の問題が山ほどあった。
🙋♀️「この問題、おかしくない❓」
と、娘はよく混乱していた。
小学2年から『ハリポタ』を読んでた娘は、
日本語にかなり厳しい。
そういう時、子供たちには視点の話をした。
抽象的な概念だけど、
息子も娘もよく理解した。
A)点数が欲しいなら、、、
質問者の視点を探り、
⭕️が貰える解答をする。
B)点数を気にしないなら、、、
自分の視点で答える。
娘はA)で、息子はB)だった。
どちらでも良いよ。
自分の好きにすれば。
私が子供たちに伝えたかったのは、
正しいとか間違いとか、
良い悪いとか、
そういうのって絶対的なことじゃなく、
視点の違いだってこと。
正直、「好み」だと思うし。
でも色んな視点を持てれば、
その分だけ面白いものが見える。
自分の好みが選べる。
だから「間違ってる❗️」と思う時は、
視点が固定されてるってこと。
で、自分のスペースも限定されてる。
視点=認識=自分の世界。
良いとか悪いではなくて、
それが「好きなのか❓」ってこと。
🙋♂️「先生が、毎日のように朝日新聞❗️」
と、中学生の息子が言ったりすると、
じゃあ、その先生の視点はどうなのか❓
って事は、何処にいるんだろう❓
と問いかけると、息子はちゃんと思案する。
そして、抽象度を上げることが出来る。
でも先生〜、
政治の話をするのなら、
子供たちに自分の頭で考えさせて欲しい。
1つの視点を押し付けるのではなく、
自分の好みを探求させて下さい。
子供たちがどういう答えを出そうが。
とは思ったけど。
🙋♀️🙋♂️「あの人がーっ‼️」
と言う時も、まずは自分の立ち位置を確認。
そこから見れば、そう見える。
では、違う場所を探して見てみる。
他の視点を見つけられるかな❓
何処に立つのが、自分らしい❓
子供たちはメタ認知、楽勝✌️
まぁ、そういうわけで、
私が色んな視点を持とうとするのは、
それが楽しいからであって、
そういうのが好きだから。
固定されるのも限定するのも、
ちょっと息苦しいから。
ただ、それだけ。
子供たちも色んな視点で見られるといいなぁ、
と思って話をするのも、
🙋♀️🙋♂️「まぁ、それも有りかな。」と、
話も通じるし展開して楽しいからであって、
正しいと思ってるからではない。
視点は多くなればなるほど、
正しいとか良いという断定とは、
程遠くなってしまうので、
良いか悪いかがハッキリしないって、
生きていく上でどうなんだろう❓
と思ったりもするけど。
ちなみに、正誤や善悪をハッキリ持つ人を
ある意味で尊敬したりする。
固定と限定の人生って、迷いが無い気がする。
フラフラと視点間を飛び回って、
着地点を見つけられない場合、
まぁ、お金のこともなんだけど、
何か違う気がするけど、どうよ?
ってことになる、、、なってます。
そこは、太郎君な私💦